2014年1月25日土曜日

東海テレビの「セシウムさん」事件が問いかけるもの


東海テレビのセシウムさん事件は、すごく大きな問題を投げかけていると考えます。
少し前の原稿ですが、朝日新聞社の「Journalism」に書いた原稿を載せておきます。

http://www.asahi.com/digital/mediareport/TKY201111090338.html


【放送】「セシウムさん」が加速させた視聴者のテレビ不信2011年11月10日

 「けっきょく人の不幸は飯のタネだったのか!」

 「『つながろう』とか『寄り添います』とか言ってたのはうわべだけか!」

 強烈な言葉がネット上に書き込まれている。テレビ番組を送り出す側に対する怒り。テレビの言葉は本音を隠した建前だったのか。災害や事故はしょせん他人事だったのか。そんな不信の嵐だ。

 東日本大震災を経て、私たちの生活上の安心感や住民の連帯感が崩れ落ちた。原発事故で政治や企業、専門家などの日本型システムの脆(もろ)さも露呈した。

 そんななかテレビには何ができるのか。殺伐とした光景を変え、かすかな光を当てることができないのか。人間の温かみやつながりを取り戻せないのか? 放送を通じ、絆を取り戻すきっかけを作れないのか? そんなことを真剣に考えているテレビ人は少なくない。だが、そんな矢先に事件は起きた。

 テレビ界を揺るがした東海テレビの「セシウムさん」事件だ。テレビ不信は加速をつけて広がっている。

 事件は、8月4日午前に放送された東海テレビの情報番組「ぴーかんテレビ」の放送中に起きた。リハーサル用の仮テロップが誤って放送されてしまったのだ。仮テロップは、番組の終わりに視聴者プレゼントの当選者を発表するためのリハーサル用。本来は放送されないはずだった。岩手県産米ひとめぼれ10キロを贈る当選者名に「怪しいお米」「汚染されたお米」「セシウムさん」という悪ふざけの言葉が入っていた。放射能の影響で出荷の見通しに気をもむコメ農家の心情を逆撫でするような内容だった。

 経過は単純だった。テロップ制作者が「怪しいお米」「セシウムさん」などと書き込んだ仮テロップを作成。あくまでリハーサル用で、実際の当選者発表時には具体的な氏名が入る予定だった。それでも不謹慎だと感じた他のスタッフがテロップ制作者に注意したものの修正されないまま放送に入った。

 リハーサルはVTRで通販コーナーを放送している間にスタジオで行う。

 いつもなら仮テロップは放送用とは別のテロップラインに並べられるが、その日は放送用ラインに並び、不慣れなタイムキーパーが送出。生放送にのってしまった。当初、放送事故が起きていることに誰も気づかず、テロップは23秒間も流れてしまった。

 放送後、抗議の電話が殺到した。東海テレビは経営幹部ら6人に、外部委員の大学教授1人を加えた検証委員会を設置。委員会は関係者に事情を聴きまとめた検証報告書を作成。検証番組と併せて、8月30日に公表した。

 検証報告書によると問題の仮テロップは「50代の男性テロップ制作者」が作成した。何度問いただしても彼は「ちょっとふざけた気持ち」「頭に浮かんだ言葉を書いた」という回答に終始したという。

●「ふざけた気持ち」の根源はどこから?

 検証報告書などでは、こうした放送がなぜなされたのかという経過について、放送の仕組みやチェック体制、スタッフの動きなどを交えて細かく報告している。

 さらに風評被害をもたらしたとして岩手県側への謝罪を繰り返し、岩手県の観光やコメ農家支援の特別番組を制作する方針も公表した。

 こうすればミスを防げたはずというチェック上の不備をいくつか指摘する一方で、当の「テロップ制作者」については「著しく社会常識に欠けている」という一言だけで片付けている。なぜ「ふざけた気持ち」が生まれたのか。日頃の彼に対する周囲の関わりや職場で意見の違いなどを議論したのかといった「精神」の問題に関しては不明なままだ。検証報告ではあまり重点が置かれていない印象だ。放送の公共的使命について立ち位置の確認はどうだったかなど、関わった人間たちのジャーナリスト意識の検証こそが大事ではないかと思いながら検証番組を見たが、「ジャーナリスト」あるいは「ジャーナリズム」という言葉は一度も出てこなかった。

 彼を含む制作者集団はテレビ画面の向こう側の人たちと、どういう精神や姿勢で向き合うべきだったのか。こうしたジャーナリストの「精神」やその「教育」に関わる検証は相当希薄だ。詳しくは東海テレビHPで報告書を読んでほしい(注1)。07年の関西テレビ「発掘!あるある大事典」捏造事件の調査報告書(注2)と比べ、チェック体制により比重が置かれ、制作者の自覚や人間力、内発的な努力への言及の少なさが際立つ。

 そこが気になるのは、視聴者や取材相手に対して寄り添う精神は、ジャーナリストとして報道機関の根幹の気構えでありながら必ずしも重視されてこなかったという反省があるからだ。

 かつて私が地方のテレビ局で駆け出しの記者だった頃、こんなことがあった。体調を崩して生活保護の申請窓口に行ったのに申請用紙を渡されなかった母子家庭の母親が餓死するという事件があった。

 それをきっかけにニュース番組で生活保護に関して体験談を募集したら、「私も同じような目にあった」など報道部に連日かかってくる電話は大半が生活保護に関するものになった。多くは涙ながらの訴えで受話器を握りしめることが1時間、2時間を超えることもよくあった。

 最初はこんな実態があるのは許せないと報道部の記者が総出で電話受けをしていたが、次第に熱心にメモをとるのは私だけになってしまった。同様の話が多かったのと他の仕事に支障が出たからだ。場所や状況が微妙に違っても内容は似たりよったり。それでは新たなニュースにならない。それだけ生活保護における申請拒否という実態が深刻だったわけだが、記者の多くは飽きて離れてしまった。

 そんななか記者の数が少ない土曜日に電話がかかってきた。生活苦にもかかわらず長距離電話をかけてきた女性は涙声だ。長時間、話を聞く私に、20歳年上のデスクが大声を投げつけた。

 「おい、いい加減そんな電話、さっさと切れよ」

 さらに数十分、相手の話を聞いてから受話器を置いた私は憤然とデスクにつかみかかった。

 「おい、そんな電話とは何だ。そんな電話とは。取り消せ!」

●寄り添う姿勢は画面の中だけ?

 体験談をお寄せくださいと番組で告知したのはこちら側だ。向こうは自分のつらい境遇を知らせるためにわざわざ電話をかけている。それを「同じ話」と感じるのは、新しい切り口でないとニュースで取り上げにくいという、テレビ局側の勝手な都合だ。

 まさに報道のご都合主義だった。「共感します」「寄り添います」と口にしながら、用が済むと見向きもしない。デスクを睨(にら)みつけながら、仕事が持つ欺瞞(ぎまん)性を自覚した。

 やはり地方にいた頃、断崖を掘り抜いた国道トンネルが崩落して、中を走っていた路線バスなどの車両が乗客ごと押しつぶされる事故があった。断崖がさらに崩れる危険もあり、救出作業は難航。上部の巨大岩盤を爆破してから警察や消防が入った。刻々と状況が変わる大事故でもあり、全国ネットの緊急特番が組まれ生放送した。

 記者もアナウンサーもカメラスタッフも現地やスタジオから不眠不休で伝え続けた。そして、最後に巻き込まれた20人全員が遺体で見つかったという情報が入り、数日間の特番は終わった。地元キャスターの親しみやすさもあって特番の視聴率はダントツだった。終了後、報道担当の上役が大量の缶ビールを抱えて現れた。フロアにいた全員に配った。

 「よくやった。おかげで視聴率は圧勝だ。おめでとう! 乾杯だ!」

 テレビモニターには遺体搬送の映像が続々と流れていた。犠牲者がいる大事故。なぜ「おめでとう」なのか。なぜ「乾杯」なのか。違和感と罪悪感でいっぱいだった。

 取材を受けた犠牲者遺族らがこの場面を見たら、とても許さなかったろう。放送では相手に寄り添うふりをしつつ、本音の部分で内向きの論理で動く。そんな二面性を心に刻んだ。

 「セシウムさん」のニュースを知った時、私が真っ先に思い出したのがこの光景だった。画面の向こう側の悲劇。本音でどこまで「わがこと」と受け止めているのか。根っこは同じだ。

 私たちはニュースや情報番組で、苦しみの淵にいる人たちの境遇を頻繁に伝えている。最近なら東日本大震災や原発事故の被災者たちだ。現場でリポートする記者たちは、声をなくすほど圧倒的な災害の惨状に立ちすくみ、何を伝えるべきか、被災した人たちにどう声をかけるべきなのか、悩みながら取材している。できるだけ寄り添う形の報道ができないか突きつめて考える記者も多い。

 しかし「セシウムさん」事件は、ニュースを伝える側の私たちが懸命に示そうとしている共感や同情に対しても、人々が強い疑念を抱く結果をもたらした。うわべだけでないのか。しょせん「飯のタネ」と考える二面性がないのか、と。

●プロの精神で欺瞞性を克服

 そもそもジャーナリズムの仕事ではテレビに限らず、他人の不幸の現場を撮影し、話を聞き、伝えることが多い。

 だからこそ事実とどう向き合うのかが問われる。他人事とせず、わがことと考えて取材し、世間から忘れられないように報道を続ける責務がある。そうした意識は、現場の記者ならば被害者らと向き合ううちに考えさせられる機会も少なくない。しかし、今回の「テロップ制作者」のように、広い意味でのジャーナリズムに関与する職種の人にまで、どのようにして意識を共有してもらうか、精神の深度をどう確認するかとなると難しい。

 「テロップ制作者」は、現場との距離が離れているため、テレビの欺瞞性・二面性の本音が現れやすかったのだ。それが今回の事件の本質だろう。

 ジャーナリストは、個々の事実を前にして、わが身に置き換え、考えていく職業だ。もしも「他人事」にしてしまうなら、もうジャーナリストではない。だから共感力をつけるのは職業倫理でありプロの職業精神である。

 「他人事」でなく「共感」。国民の知る権利を基本にした放送の公共性を自覚することから始まる。

 理想を言うなら放送に関わるすべての職種の人間がジャーナリストたれ、という点に尽きる。こうした意識を徹底させるための仕組みを作っていく必要がある。検証報告書を読む限り、この問題がどこまで意識されているかについてかなり疑問に感じる。

 ちなみに放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会は9月に出した「提言」で、制作現場での議論の大切さを訴えた(注3)。「話し合う」ことを通じ、互いの精神を鍛え合う以外に根本的な策はないという主張だ。ことの神髄を見据えた卓見だと思う。(「ジャーナリズム」11年11月号掲載)

(注1)「ぴーかんテレビ」検証報告書(11年8月30日、東海テレビ放送「ぴーかんテレビ」検証委員会) http://tokai-tv.com/press/pdf/2011/110830.pdf

(注2)調査報告書(07年3月23日、「発掘!あるある大事典」調査委員会) http://www.ktv.jp/info/grow/pdf/070323/chousahoukokusyo.pdf

(注3) 東海テレビ放送『ぴーかんテレビ』問題に関する提言(11年9月22日、BPO放送倫理検証委員会) http://www.bpo.gr.jp/kensyo/decision/011-020/20110922_tokai.pdf

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水島宏明(みずしま・ひろあき)

テレビ・ジャーナリスト、ドキュメンタリー演出家。1957年、北海道生まれ。主な番組に「喰いものにされたキヨシさん」「カナリアの子供たち」「奇跡のきょうしつ」。著書に『子どもの貧困白書』(共著)など。